主人公の霜介はたまたま水墨画の巨匠に出会い、才能を見込まれて弟子になり、順調に腕を上げ、よき理解者にも恵まれて……とあらすじだけ読めばなろう小説のような都合のよさだが、実際はそう感じさせない物語の奥行きがある。
それは、シンプルな物語の枠に対して、肉付けがとても上手だからだ。
霜介は両親を事故で亡くしたことから、自分の内側の世界に閉じこもるようになった。
しかし、そこから外側の世界を見つめ続けたことで、水墨画家に必要な観察眼の才能を開花させていた。
霜介に限らず、登場人物にはなぜそういう人になったのかの背景がきちんと存在する。
そして、霜介が見て感じて描写される世界の表現はとてもピンポイントで収まりがいいのだ。
「まるで、この瞬間以外の時間がすべて長い長い旅の中にあったようなそんな感覚だった」とは、水墨画の練習を休憩して和室で和菓子とお茶を飲むときの雰囲気を表わした一文だ。
こうした表現力は霜介だけのものではなくい。
同門のライバルとなる千瑛は霜介の絵を「鋭い、切ない線ね」と評したり、師匠の湖山は「まじめというのはね、悪くないけれど、少なくとも自然じゃない」と押しつけがましくなくさらっと格言を言ったりする。
一つ一つの表現が腑に落ちるものばかりで、都合がよすぎると感じることがないのだ。
こういう人たちなら、こういう物語になるなと納得できる。
水墨画を描くにあたって、世界をどう表現するかというのは、自己をどう捉えるかという「人」についての話だった。
水墨画というあまりなじみのない世界を描きながら、文学性とエンタメ性を併せ持つ作品だ。
著者の二作目が出たばかりなのでそちらも読みたい。
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